歴史
131 ~ 190年頃 |
成務天皇の御代に創建されていたという記録があります。(掛川誌稿)(成務帝の時に物部の連の流を以て、遠江国久努国造久努直、佐夜直など任ぜられしこと旧事記に見ゆ、其頃は諸国の国造等、神祇を掌りし世の事なれば、佐夜部直と云ものも遠江国造の下にありし職にして、此山口の辺に居りて其祖神に仕えしものならん) | |
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807年 | 大同2年 | 平城天皇の時、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、当社を再興しました。 |
850年 | 嘉祥3年 | 遠江「任事の神」に従五位下の神階がおくられました。(文徳実録巻の二) |
860年 | 貞観2年 | 遠江「真知乃神」に正五位上の神階がおくられました。(日本三代實録) |
927年 | 延長5年 | 醍醐天皇の御代に選上された延喜式神名帳に、遠江佐野郡四座の一つとして「己等乃麻知神社」があげられています。 |
1001年 | 長保3年 |
清少納言が宮づかえのつれづれに筆を染めた「枕草子」の225段「やしろは」の一節に「ことのままの明神」があります。 (布留の社。龍田の社。花ふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらんとをかし、ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき。) |
1062年 | 康平5年 | 源頼義が京都より石清水八幡宮を当社に勧請しました。 |
1186年 | 文治2年 | 西行法師(69歳)が佐夜の中山で、「年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山」を詠みました。(新古今和歌集) |
1155~1216年頃 | 鴨長明が、「さやの中山の道の口なる ことのままといふ社あり、そこにて詠める」として、「またも来ん わがねぎことのままならば、しばし散らすな木々のもみじ葉」という歌を残しました。 | |
1213年~1219年 | 建保年間の「一宮記」に「己等乃麻知神社」と記されています。 | |
1223年 | 貞応2年 | 源光行が貞応2年4月はじめに、都を発ち東に下った時の旅の日記が「海道記」として残っています。(山口と云ふ今宿を過ぐれば路はふるきによりて通ぜり。野原を跡にし、里村をさきにして、うちかへうちかへ過ぎ行けば、事のままと申す社に参詣す。~中略~杉のむら立ちは三輪山にあらずとも恋しく尋ねてもまいらん。願わくはただ 畢竟、空寂の法味を納受して真実不虚の感応をたれ給へ。「思ふことのままにかなへば杉立てる 神の誓ひのしるしとぞ見ん」社の後に小川をわたれば佐夜の中山にかかる。) |
1242年 | 仁治2年 | 源光行の子、前の河内守親行が記したとされる「東関紀行」には、仁治二年、秋京都を発ち鎌倉に向かう道すがらこの土地を過ぎた時の記事が見られます。「ゆうだすき かけてぞ頼む今思ふ ことのままなる神のしるしを」 |
1248年 | 宝治2年 |
地頭であった忍ノ十郎が、遠州百社参りの途中に日坂に参っています。 「ねぎことの ことのままてふ言の葉を かけて久しき宮居なりけり」 |
1279年 | 弘安2年 | 阿仏尼が「十六夜日記」に「ことのままとかいふ社」に詣でたことを記しています。(二十四日ひるになりて、佐野の中山越ゆ。ことのままとかいふ社のほど 紅葉いと盛りにおもしろし、山蔭にて嵐もおよばぬなんめり、ふかく入るままに をちこちの峯つづきこと山に似ず、心ほそくあはれなり。) |
1340年 | 延元5年 |
後醍醐天皇の第4皇子、宗良親王が掛川に立ち寄っています。掛川からの街道を進むと、道は日坂から佐夜の中山峠にかかりますが、宗良親王がこのときに詠んだ歌が「李花集」に収められています。 「東路やさよの中山越えくれば かひのしらねぞ雲かくれわく」 |
1419年 | 応永26年 | 「一四一九年 事任本宮」と記された鰐口が、静岡市井川田代の薬師堂に祀られました。 |
1534年 | 天文4年 |
3月に、冷泉大納言為久卿がこの地を通りがかり、「事任」のやしろに参詣したとの江戸時代の記録があります。(冷泉大納言為久とありますが、従二位前権中納言冷泉為和卿の事だと思われます。冷泉家の嫡流である為和卿は1486年から1549年を生きました。)天文の頃は主に駿河におり、今川氏と親しみ「今川為和歌集」を残しています。 「大井川けふのわた瀬をさしておもふ ことのままにと祈る神垣」 |
1608年 | 慶長13年 | 徳川家康公が、大壇那として本殿を造営した棟札があります。 | 家康は八幡神を武家の守護神として崇め、幕府は御朱印百石余を寄進しました。
1628年 | 寛永5年 | 徳川秀忠公が中門を造営した記録があります。徳川幕府は御朱印百石余を献上しました。(本殿の扉の金具には菊の紋と葵の紋が刻まれています。) |
1635年 | 寛永12年 | 烏丸光弘卿があらわした「春の曙記」にことのまま明神に参拝した記事があります。 |
1659年 | 万治2年 | 浅井了意が記したとされる「東海道名所記」に記述があります。(左の方に八幡の宮あり。右の方に銀杏の木あり。その右は田なり。嫁が田と名づく。) |
1709年 | 宝永6年 | ドイツ人エンゲルベルトケンベルの旅行記には、八幡宮と記されています。(新田、入坂(日坂)駅。金谷より一里二十四丁。宿を出て左に鯨山。道の端に八幡宮。此の所にくらほねの池あり。右に入坂の城。) |
1740年 | 元文4年 | 遠州岡部で神社の家の次男として生まれた国学者、賀茂真淵が七月に江戸を出て浜松に帰省し、ふたたび江戸にもどるまでの二カ月間の動きをしるしたのが『岡部日記』です。その日記の中に当社についての記述があります。(下れば新坂(にひさか)の宿也 すくのはてなる社を今の世には八幡の社なりといふ。こは延喜式に、佐夜郡己等乃麻知神社とあるなるべし。はやく文徳の御時従五位下になし給へるには、事任社としるされたり。清少納言が記にも「ことのままの明神 いとたのもし。さのみききけんとやいはれんと思ふぞいとをかしき」とかきたるにむかへ見れば、ことのまちとあるぞおぼつかなき。さて鴨長明も「さやの中山のくちにあるなることのままの社」をかければ其比まではうたがひなかりけむ。此やしろねぎこと聞き給ふとて、人々のうちこぞりてたふとみまうづれば、ことのままなる社といふべければ、行く手におがみて過ぐるもたのもし、右のかた、はるかに秀でたるはあわがたけなり。) |
1761年 | 宝暦11年 | 御神輿を再造しました。 |
1797年 | 寛政9年 | 秋里籬島の「東海名所図絵」に、「宮村」という地名と共に江戸中末期の通称である誉田八幡が紹介されています。(己等乃麻知神社 日坂の少し西の方、宮村にあり。今誉田八幡と称す。延喜式内佐野郡に属す。) |
1820年 | 文政3年 | 中門、玉垣、社務所(現宮司宅)を造営しました。 |
1835年 | 天保6年 | 御神輿を修理しました。 |
1840年 | 天保11年 | 拝殿、鳥居を新築しました。 |
1861~1863年 | 文久年間に五社神社を造営しました。 | |
1852年 | 安政2年 | 稲荷神社を造営しました。 |
1868年 | 明治元年 | 鳥羽、伏見の戦いの後、新政府軍は東海道を東に進みました。これに合わせて、遠州地方では、石川依平らの国学の影響を受けた神主や国学者を中心に「遠州報国隊」が結成されました。掛川からも9人が参加し、当社の祀官であった朝比奈蔵之進藤原秀直もその中のひとりでした。その後、戦乱が落ち着いても祀官は幕府の刺客にねらわれて帰ることができず、誉田束稲と名前を変えて招魂社(現在の靖国神社)に祀官として仕えましたが、25歳の若さで逝去しました。 |
1872年 | 明治5年 | 当社は県社に列せられました。社名を「事任八幡」とすることは認められず、「県社八幡神社」と称することになりました。 |
1940年 | 昭和15年 |
紀元二千六百年を記念して、現在の社務所を造営しました。 |
1947年 | 昭和22年 | 社格が撤廃されることになりました。これを機に、社名を「事任八幡宮」と改称することが認められました。 |
1974年 | 昭和49年 | 稲荷神社を再造営しました。 |
1989年 | 平成元年 | 五社神社を再造営しました。 |
1990年 | 平成2年 | 金刀比羅神社を修理しました。 |
1997年 | 平成9年 | 境内の石囲垣を造営しました。 |
1999年 | 平成11年 | 元々の御祭神「己等乃麻知比売命」と主祭神として認められるように神社本庁に申請をしていましたが、この年8月に県知事の認定書交付を受けました。 |
2007年 | 平成19年 | 現在地への御遷宮千二百年を記念して、御神輿の大修復を行うと共に、崇敬奉賛会が発足しました。記念石碑を作り、大祭の神輿渡御では、お供の白丁を新調して列を整え、屋台(山車)の八町連合運転を50年振りに復活しました。 |
2009年 | 平成21年 | 南口に鳥居を建立しました。 |