御由緒

御由緒
創建年代は不詳ですが、(第13代)成務天皇の頃との記録があります。

大同2年(807年)、坂上田村麻呂が勅命を奉じて、当社を再興したと伝わっています。それまでは本宮山にお祀りされていましたが、この年に本宮山より今の地(里宮)に遷座されたようです。
もちろん現在も本宮山では、小さな祠でお祀りされています。

醍醐天皇の御代に選上された「延喜式神名帳」には、遠江国佐野郡四座の1つとして「己等乃麻知神社」があげられています。

また、平安時代、清少納言が書いた「枕草子」の中に「ことのまま明神いとたのもし」と書かれた項があります。平安時代には、「ことのままの神」が都にまで伝わっていたとわかります。
ことのままの神は、「願い事のままにかなえてくださる神」として伝わっていたようです。

その後源頼義が、京都より石清水八幡宮を当社に勧請したのは康平5年(1062年)でした。
武家社会の世の中となり八幡神が武家の守り神として広まったので、当社も「八幡宮」を称するようになりました。八幡神を守り神として奉る世の中で、異なる神名のまま社をお守りすることは厳しく、多くの神社が社を廃されることをおそれて名前を変更した時代でした。

戦国の世では、この一帯も戦いの渦の中でした。「己等乃麻知比売命」様をお守りしようと社家の者は、比売神様の分霊をあちらこちらにお祀りいたしました。

戦国の時代を経て、徳川家康が大檀那として本殿を造営した棟札があります。造営しなくてはならない痛手を当社も受けていたのでしょう。幕府は御朱印百石余を寄進して幕府の守り神であると祟めました。その後、徳川秀忠が中門を造営した記録があります。
本殿の扉の金具には、菊の紋と葵の紋が刻まれているところから、将軍家が当社を信仰されていたことがわかります。

江戸時代の記述では、「己等乃麻知神社 日坂の少し西の方、宮村にあり。今誉田八幡宮を称す。延喜式内佐野郡に属す」とあります。江戸時代の通称は「誉田八幡宮」でした。旅に携えた東海道の道中案内図などには必ずと言ってよいほど誉田八幡が記されていました。この時代は「ことのまま」が忘れられかけた「ことのまま」空白の時代でした。

明治5年、県社に列せられて「県社八幡神社」と称しました。
明治の頃には、「事任八幡」と称することを願い出ても認められなかったのでした。

昭和22年に社格が撤廃された折、由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づいて、「事任八幡宮」と改称することができました。しかし、その頃御祭神として神社本庁に認められていたのは八幡大神のみでした。(*古い由緒)

平成に入り、元々の御祭神である「己等乃麻知比売命」を再度里宮にお迎えする「ことのままおこし」をいたしました。里宮では長い間八幡大神を主にお祀りされていましたが、その間も己等乃麻知比売命様はひっそりと本宮におられました。当社では、「ことのままおこし」として、改めて己等乃麻知比売命様を里宮にお迎えすると共に、「ことのまま」に関する種々の史料を添えて神社本庁に「己等乃麻知比売命」が主祭神として認められるよう申請いたしました。そして、やっと平成11年に県知事の認証書の交付を受けました。
主祭神「己等乃麻知比売命」と共に八幡大神三柱をお祀りする新たな「事任八幡宮」となり現在に至っております。

古い由緒